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    04/20
    Wed

    アンチカーナビ
    CATEGORY:2016

    テスラモーターズ(プレミアム電気自動車)のクルマを最近よく見かけるようになったが、さすが電気のクルマ。コンソール中央部にはなんと15インチのディスプレイが搭載されており、あらゆる情報を一元管理できるようになっている。

    それからすると1978年製のこのクルマには少なくとも「画面」というものは存在しない。運転は自分でするものであって、ドライバーは目的地まで自分の力で最短の時間で旅行をする。もちろん、運転する愉しみも存在するのでその限りではないが、基本的に運転に「画面」は必要ない。


    さて、私はアンチカーナビ派だ。これまで自分で所有した自動車、モーターサイクルにナビというものを搭載したことがない。もちろん、レンタカーなどでナビが装備されているものを運転したことはあるが、可能であればできるだけカーナビ機能はオフにして運転する。

    これは私が二輪、四輪いずれの場合も運転そのもの、または運転して旅行すること自体、比較的知的な活動であると考えているからである。

    確かにナビは便利だ。特に行ったことのない場所への案内は非常に助かるし、時間の節約にもなる。しかし、ナビの言うことをきいて運転した場合、どうもその経験は後々には思い出として残らないような気がする。

    私はその理由を、下調べ時間の節約と指示に従う運転は道を覚えないからであると見ている。特に事前計画の重要性を説くつもりはないが、下調べの時間は旅をイメージさせるし、実際に調べたものと異なる風景や状況が現れた場合の心の動きも大切なものだ。人は以外とそんな小さな挑戦に勝利することで自分の成長を感じられるものだ。

    また、指示に従う運転による道を覚えないこと。これは少し悲しいものがある。確かに目的地に着くことも重要だが、その途中の道を愉しむことがなければただ、そこに向かっているだけ。ということは道中の時間は「ムダ」ということになる。

    皆さんの経験においても言える事だと思うが、経験はその場所に行くや、それを買うということではなく、その場所に行くまでの時間であったり、買ったものを身に着けていた時間が重要なのだ。

    ということで、カーナビは私の中では究極的に時間を節約するモノであり、仕事で使う以外、個人使用でのカーナビほど自分を退屈に追い込むツールはないと考えている。

    さらに。
    運転席にカーナビの画面があれば、その空間は最も情報量の多いその画面に支配されることになる。家族団らんの居間やダイニングで威張っているつけっぱなしの大画面テレビと同じ状況をクルマでも再現しようという試みなのだ。


    ここまで書くとなんとかご理解いただけると思うが、
    単にハイテク嫌いではなく、そこにしかない時間を抹殺するマシーンであることをご理解いただけえば幸いである。


    アンチカーナビ。
    人生はナビゲーションされるものではない。自分で道を描いて、選択し、途中の移動も貴重な時間として楽しむ。

    ナビゲーションに支配されたほうが快適というのであれば、その時点であなたはすでに誰かの指示に従う生き方を選択していると言えるのかも知れない。



    04/08
    Fri

    売り手市場 / 買い手市場
    CATEGORY:2016

    少々雑な写真で申し訳ない。旅先での一コマだ。

    ミスタードーナツ。

    主婦の方々が子供を送り出し、日常の家事に戻る前に行く場所としての機能を有し、

    (東京の場合は自由が丘や青山でランチだとかそういう、クレイジーなことになるのだが。。。)

    学生ならお替り自由のコーヒーで放課後に勉強とダベりを行う場所として機能がある。


    実際に私も高校の時分にバンドの名前を決めたのもミスタードーナツだったし、最近では都市部でのお店の減少に少々胸を痛めている。

    混雑時の長時間の勉強を遠慮してほしい旨のこのお願い文書。
    「勉強くらいさせてやれよ」と思ったり、
    「まあ、確かに勉強しているのかどうなのかがわからない連中もいるよな」とも思ったり。

    しかし、高校生が友達と放課後にミスタードーナツで勉強する姿は是非とも日本の風景として残してもらいたいものだ。


    さて。
    売り手と買い手がいて商売(ビジネス)は成立する。
    これはいわゆる消費者とお店の間でもそうなのだが、特に売り手市場、買い手市場とはメーカーと小売りの間の取引で最も多くのケースがあるのでは?と考える。

    ポーター『競争の戦略』(1980年)におけるポジションというフレームワークを使えば、差別化かコストリーダーシップか?とという話になるわけで、その両方を混ぜて考えてしまいがちな売り手と買い手の双方がお互いに議論をするとだいたいの場合、集中すべきところを見失って結局は誰でも簡単に成果として理解できる「コスト」で話を決着させてしまう傾向があるように思う。


    結果、販売力の最終兵器を価格と考えている人たちにその原資を渡してしまい、いくらブランドと言えども世の中では安く売られ、安く買いたたかれるのである。

    これは、ブランドがブランド作り(ブランディング)に投資する金額を一気にブッ飛ばすくらいのインパクトがあり、結局はブランドはブランディングにかけた費用と製品そのものに期待される利益の両方において多くのお金を失うことになるのである。

    そりゃ、いくら大きなブランドでもこのスパイラルに入ればそう遠くない将来に破たんする。なぜならお金が出ていくばかりなのだから。

    そうなると、売り手市場を維持する側と買い手市場を維持する側での戦いはなかなかハードコアなものがある。

    買い手にとっては「販売力」・売り手にとっては「ブランド力」がそれぞれの主要な武器となるが、例えば話し合いの席でブランド側が「おたくは販売力がない」と言い、小売り側が「おたくにはブランド力がない」と言えば、その打ち合わせはその時点でお開きとなり、商売にはならない。

    どちらも、微妙な表現を使ってなんとか調整をするというのが実際のところだ。




    売り手市場と買い手市場は単純に需給バランスでできているのものではなく、こうした事情もあるのだということ。

    それと何より、それぞれそれを主張できるだけの材料を今この瞬間も探しているのである。



    04/07
    Thu

    先生お久しぶりです。お元気そうで何よりです。
    CATEGORY:2016

    博士前期課程でお世話になった指導教授の本。
    最近また1冊出されたようで早速読むことにした。


    私の前期課程(修士課程)では指導教授が2人いた。
    お一人はイギリス人(正確にはウェールズ人)ともうお一人は日本人。
    最初に指導を受けていたイギリス人教授は私の修士課程1年目が終わった時に母国へ戻られることになり、その方から引き継ぎを受ける形でお二人目の日本人教授が私を引き受けてくれた。

    その後に私の研究はお二人目の先生の影響を強く受けることとなり、先生のご専門であるコーポレートガバナンスの勉強を進めることになった。


    さて。

    今は就活のシーズンのピークで多くの就活生を街でも見かける。
    その中で企業への就職を目指す学生は、恐らくだがエントリーシートや面接に向かうにあたり、いわゆる「志望動機」と戦う日々を送っていることだろう。


    「志望動機」めんどくさい。その気持ちはよく解る。


    なぜなら、本来の志望(希望ともオーバーラップするが)なんて誰も自分でわかっていないからだ。これは20歳そこそこの人たちをバカにしているのではなく、

    私は「自分が何をしたいかなんて一生わかるはずがない」と日頃から思っているからだ。

    なので、就活生諸君には

    「わからなくて当然。まわりもみんなそうだし、分かっている人はかなり特別な存在であって、1ケタパーセントしか存在しないだろう」

    という言葉を送りたい。


    たぶん、なんとなく描いている将来とは、できればギリギリの生活をしたくない。経済的に自立してその中で自分の人生をやりくりしていきたいという漠然としたものだと思う。みんなそんなもんだ。


    だから、心配しないでほしいし志望動機は、

    「ここだったら自分はやっていけると思う」

    ということを別の表現で書けばよいと思う。


    (そもそもTHE WELBECK GALLERYのこのDIARYを読んでいる就活生なんているのか?という気持ちになってきたので、そろそろ別の話題に移る)


    冒頭の話に少し戻って、
    私がそんな指導教授の本を発行される度に買って読むには3つの理由が存在する。

    1.先生がお元気でいらっしゃることの確認と研究がどのような展開を見せているか?を楽しみにしている。

    2.本を買うことで学生時代お世話になったお礼をその都度しているつもりである。

    3.自身の上書き(またはアップデート)を確実に行うため。



    なので、書店の棚で新刊を見つけた時は

    「先生お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

    と思わず本の前で言ってしまう。

    最近はAmazonも便利に活用しているので、検索にヒットした際にはモニターに向かって同じことをつぶやく。

    上記理由3で述べた「自身のアップデート」については特に大切にしている。
    かつて読んだある本に


    「学校を修了した時点で、あなたは最新型ではあるが同時に旧型への階段を駆け下りはじめている」


    という表現にショックを受けたことがこの習慣につながっている。

    資格、学位、私はその全てにおいて、同じことが言えると思う。
    確かに経験をそこから積むことが新たな財産にもなるし、力にもなるが、
    少なくとも今それを目指している人は「資格試験合格」がゴールではないことを認識すべきだ。


    というのも、同じ資格を持っている人はまず死ぬほどこの世の中に存在する。
    さらには、その上に経験を積んでいる人と資格の上では同じ条件で争うことになる。

    もう学校を出た時点で学年や年齢は関係なくなるのだ。

    それが悲しいかな、公平な競争の原理となっており、私達はその上で一定の自由が保障されている。

    そう。自分が自分でいられることは、非常に厳しい世の中の自由に支えられているのだ。


    そこで生き抜く武器とは何か。


    それは最終的に私も含めて、自分自身でしかない。